覚えている限り
二回ほど宗教に勧誘されたことがある
一度目は中学の頃だったか
小中と同じ学校に通う友達に
個人的に遊びに誘われ
何度目かに勉強会的なものがあるから
一緒に行こうと誘われ
興味本位でついて行った
その子が何らかの宗教を信じていることは
事前に知ってはいたものの
行ってみたら
他の多くの参加者に
とにかく褒められまくって
「素敵な名前ですね」
「学校ですごくがんばってるんだね」
「来てくれてありがとう」
褒められることに慣れない私は
違和感ばかりをつのらせ
当時行き当たった答えは
「絶対」のある幸せ
「こうすれば幸せになれる」という
「絶対」が彼らにはあって
残念ながら私にはその「絶対」を
信じることはできないし
この先も「絶対」の無い人生を送り
何ならうらやましく思ったのを
強く覚えている
二度目は就職してから
大学で一緒に
勉強も飲みもしまくった友達から
同じように関西から関東に就職したことで
こちらも最初は食事に誘われ
しかし驚いたことは
その子がお酒をやめていたこと
確か何かの授業で知り合って
ビール好き同士で盛り上がり
陽気に過ごしてきたはずが
そして同じく
「仕事大変な中がんばってるよね」
「向上心があってすごい」
という励まし?誉め言葉
そしてまた会いたいという次の約束
最初はどうして誘われるのか分からず
何か言いたいことがあるのか
(結果的には宗教の勧誘だったと思うので
こちらが当たっていたのか)
悩みがあるのか
お金を貸してほしいのか
私のことが好きなのか
色々よくわからないまま数回会い
話を聞いていくと
知り合いと数人でシェアハウスに住んでいる
健康茶にはまっている
高価な宝石を最近買った
私に参加してほしいセミナーがある
とのこと
当時の私は土日も部活指導があり
物理的に忙しかったこともあり
セミナーには参加はせず
連絡も途切れ
思い返せばあれはおそらく
何らかの「絶対」
「絶対」なんてこの世にはないのでは
と思ってしまったのはいつからか
人の死ですら最近では危うい
死んだ人には会えないのは絶対?
Anyway,
きっと「絶対」の中に幸せがあったのだろう
その幸せに招いてもらったのだが
本当に残念ながら私には「絶対」は無理で
最近の日本のニュースを後追いしながら
宗教内での女性の使われ方に
ひどく疑問を抱き
あぁこれもまたジェンダーだったかと
フェミニズムは私の「絶対」なのかと問えば
自分らしく人生を送れる=幸せという意味では
私にとってはそれに近いものがあるが
フェミニズムを広げてお金集めや
これを買えばフェミニストになり幸せになれる!
というものもない気がするし
(フェミニズムに走ると不幸になりそう
なんて言っていた友達もいたっけ)
フェミニズムは私を救ったが
同時に私を悩ませ
様々な周囲との軋轢を生みだし
人生がどんどん変わっていったのも事実で
決していつもいつも私を幸せにしてきたわけではない
そんな個人の感情や悩みなんて
宗教の「絶対」の前では無視されてしまうのだろうか
救いのインパクトが強すぎて
ささいな疑問は見えなくなっていくのだろうか
「絶対」の無い私はきっとずっと
考え悩みもがき続けるのだろうと思う